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書籍名
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『それでも脳はたくらむ』
著者:茂木健一郎
中公新書ラクレ(2007/12) 735円
ISBN:978-4-12-150264-3
http://www.chuko.co.jp/laclef/
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こんな本
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「プロフェッショナル 仕事の流儀」などのテレビ番組でもおなじみの、茂木健一郎氏が、普段使いの脳科学を説いている。脳の「取り扱い説明書」を人間はだれも持っていない。また、どう使ったらよいかがわかったところで、脳は必ずしも思う通りには働いてくれない。“脳のトリセツ”もなく、生きるうえでの最適解など簡単にわからないが、それでも、脳はたくらむ。日々の営みの中で、たくらみの正体を見つけだしてくれるのが、本書である。
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生の体験
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いわゆる学校の優等生が面白みに欠けるというのは、よく聞く話である。足りないのは「生の体験」だ。書物を通して得られる知識は、だれかがすでに編集して、整理してくれたものである。そのような情報源から知識を得るのは効率がよく、必要なことだ。その一方で、自分で工夫し、ことばにならないものを、なんとかことばにしていくという能動的な側面に欠ける。
「生の体験」の記憶は、脳の大脳皮質の側頭葉に蓄えられる。脳に蓄積された記憶は、長い年月をかけて徐々に編集され、自分の中に意味が立ち上がっていく。最初から意味を与えられたり押しつけられたりするのではなく、さまざまなノイズに満ちた「生の体験」から、自らの意味を見出す編集作業こそが、脳を鍛える。
モーツアルトも、「生の体験」、現場のノイズによって、鍛えられたようだ。宮廷での演奏は、あくびをしている貴族や気まぐれな王様を相手にしながらのもので、猥雑な出来事に満ちていた。モーツアルトは、完璧な演奏だけでは得られない、ノイズの中に、音楽の意味を見つけた。
意味がわからないというノイズに満ちた「生の体験」の中に飛び込み、そこから自分で意味を見つけることこそが、本当の意味で脳を育む。だれかが整理してくれた知識を鵜呑みにするだけでは、脳は物足りないのだ。
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人生という名の
教養学部
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著者は、人生という名の教養学部に今も在籍しているという。「教養」ということばは、今は流行らない。著者からすると「教養」を軽視するほど愚かなことはないそうだ。知性こそ、総合的な「教養」に他ならない。
湯川英樹博士は、ノーベル物理学賞を受賞している。理論物理の専門である湯川博士だから、子供のときから数理系の学問に打ち込んだ……というわけではないらしい。湯川博士のお父さんは本が好きで、『論語』や『史記』などの中国の古典を、湯川博士に徹底的に素読させた。物質構成の単位に、中間子という革新的な概念を提出した湯川博士。脳の仕組みから考えると、漢文の素読で培われた総合的な知性が、中間子理論につながった可能性は高い。脳の中では、漢籍の教養と数理的な思考がそれぞれ独立しているわけではない。すべての要素がつながって、関係しあっている。専門性に直結する教育だけでは育めない人間の知性こそが、教養である。
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生命力を奪う
のは
わかりやすさ
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物理学や化学の原理によれば、すべてのシステムは、エネルギーの一番低い(ラクな)状態に行こうとする。坂道でボールを転がせば一番下まで落ちる。脳も同じで、つい「ラクな」方向に流れようとする。「寝るのが一番ラクだ」というのは、エネルギーが一番低いのは、実は死んだ状態(=平衡)だからだ。「そう簡単にラクなどにしてたまるか」という非平衡な状態、つまり、学び続けるのが生きているということなのだ。
飽食の時代といわれる現代。戦争で飢餓を体験した人にとっては、全くぜいたくな話である。小説に出てくる、お金がない中でやっと口にしたカレーライスのおいしさの描写を、想像することができにくくなっている。夕食のごちそうを楽しみに、朝からほとんど何も食べないという、美食家の内田百閧フ習慣は(医学的には問題があったはずだが)、食の官能を味わおうとする最大限の工夫だった。
学びでいうならば、「わからない」ことが「わかった」瞬間は、天にも昇る気持ちである。脳が官能を感じている。テレビ番組では太字のことばのテロップを流し、書籍でも「わかりにくいから売れない」と自己規制が過ぎる。飽食、お手軽ばかりの文化では、おそらく脳の官能の喜びは、本来の姿とは違うものになっていくのだろう。
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世界の
どこでも
通用する
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「普遍性」と仲良くすることを著者は勧める。どこにいっても変わらない、どんな人間でも普遍的に成り立つ原理への真摯な関心に裏打ちされてこそ、個々の活動は輝きを増す。
一つの方法に「没我」がある。なかなかうまくいかない事柄があるとき、たいてい自分とその事柄との間に距離を置いてしまっている。悩んでいる自分の扱いに困り、その課題とは別のところに逃げ道を見つけてしまう。一時的な気分転換にはなるが課題は解決しない。時間は経ち、状況は悪化する。そんなときに、著者は「没我」を勧める。
我を忘れて、課題そのものの中に没入する。自分が課題と区別できない形で一体化することが、魂を鍛えてくれる。自分自身を外から見ているかのように認識する「メタ認知」も自我の大切な働きであるが、あえて、課題の中に逃げ込む。自分と世界との境目がわからないほど混沌とした中にあっても、輝く存在であるのが、私たち人間ではないだろうか。人間そのものが普遍性を持っている。脳の活性化の先には、普遍性が見えるのだろう。
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